【4城目】2015/09/30(11日目)②【鶴ヶ城】

観音様や日新館を見た後、その①からの続きです。

少し急ぎ足でお昼を目指したいところですが、目指す場所が街中なので、慎重にナビを見ながらの行軍となりました。


そしてやっと着いたのが午後2時04分。
目的のランチは「いとう食堂」さんのカツ丼でございます。
営業時間を見ると、やばい午後2時ごろまでだって!
入れてくれるかな?

そろりと中へ。
お願いすると笑顔でOKしてくれました。
ありがとうございます!

お目当てはこちらのソースかつ丼(1100円)


すごい分厚い。


しかも柔らかい
ふわっと噛めて、じゅわっときます。
お腹が減ってたのでこれはきくぅ~


お店のおかあさんがたと色々お話しましたが、そのうちチョコと野菜ジュースを頂きました!
カロリー補給野菜不足を補える、なんともツボを押さえた粋なチョイス。
ありがとうございます(感涙)


あとここのおとうさんは鷹狩り(野鳥撃ち)鮎釣りの名手らしく、秋田には前に米代川へ釣りに行ったとのこと。
さらに自慢の剥製と相棒犬を見せてくれました(ちらっと反射している写っているのがご主人)。











このワンちゃん、ぜんぜん吼えませんがすっごい人懐こく、すぐに「お腹なでて!」と甘えてきます。
それでも山に行くとご主人と息の合ったコンビプレーで野鳥を追い詰めに行くそうです。
相当よく躾けられているのが、素人の私でもなんとなく感じ取れました。
いちど生の現場を見てみたいものですね。
いや銃ありの現場は危険なのは重々承知ですが。
ご馳走様をしてお城へ向かいます。

今回で4つ目となる100名城、会津若松の「鶴ヶ城」を目指し、食堂から自転車で約10分。
北の出丸入り口に到着。ここから入ります。








城門を通って本丸へ。


うーん、勇壮
東北の天守閣ありのお城としては最大級ではないでしょうか。

今は5層の天守ですが、このお城を作った蒲生(がもう)という人の時代にはなんと7層あったそうです。
このお城や会津地方を舞台に、先は戦国末期、後には戊辰戦争と数々のドラマが誕生したのは、昨今のメディアで取り上げられ皆さんご存知なのではないかと思います。

今回私は訪ねたときは築城者・蒲生氏郷の特集と会津若松支配者の歴史をやっていたので、少しご紹介致します。

そもそも今の鶴ヶ城は黒川城といって、鎌倉時代より所領を任された蘆名氏がこの地の名門として400年以上この地を治めていました。

時は流れ戦国時代。
鶴ヶ城も例にもれず、目まぐるしく城主が変わっていきます。


 

1.蘆名盛氏(クリックで展開)

蘆名盛氏

政宗の祖父さん・曾祖父さんの時代。
伊達稙宗・晴宗の親子喧嘩東北各地を巻き込んだ天文の乱に乗じて勢力拡大。
蘆名氏が最も領土を拡大した時代でした。
しかし長年にわたり隣接する田村氏・佐竹氏との抗争により経済・資源が困窮。
ほぼ一代限りで蘆名氏の勢力は徐々に衰退していきます。
2.伊達政宗(クリックで展開)
伊達政宗
御存じ独眼竜。
当時の蘆名氏の当主が急逝したのを機に、当時締結していた同盟を破棄
猪苗代湖・磐梯山の狭間にての合戦に勝利し会津へ進出。
これまでの長い年月多大な犠牲の上、米沢・宮城半分・会津と広大な領地を得て、南奥州の覇者としての地位を確立しますが、秀吉の奥州仕置きにより手に入れて1年ほどで会津その他を没収されてしまいます。
3.蒲生氏郷(クリックで展開)
蒲生氏郷
幼少期を織田信長の人質として過ごし、薫陶を受ける。
文武両道に秀で、合戦では先頭を切る傍ら、文化人としては利休七哲筆頭に上げられる。
秀吉の下でも活躍し、九州・小田原征伐の功績により会津40万石(後に92万石)を授かり、政宗と入れ違いに入城。
伊達政宗への牽制役として派遣されたが、実は秀吉から警戒されての左遷とも言われている。)
先述の通り、会津若松市街を整備し、七層の天守を建て、黒川城鶴ヶ城に改めるなど後の城下町の中核を築く。
しかし余りある才能を持ちながら40歳早逝
4.上杉景勝(クリックで展開)
上杉景勝
氏郷死去の際、嫡男はまだ13歳と幼かったので、代わりに入城。
後に関ヶ原の合戦にて敗北・移封となる。
5.蒲生一族(クリックで展開)
蒲生一族
氏郷以来会津復帰を果たすが、氏郷の長男が30歳で、孫が25歳で相次いで早死にし、会津蒲生は3代で途絶えてしまう。
6.加藤嘉明・明成(クリックで展開)
加藤嘉明明成
会津蒲生の世継騒動により、伊予松山から加藤氏が交代して入城。
嘉明賤ヶ岳の七本槍の一人。
築城の名手で、1611年の大地震により倒壊・放置されていた会津若松城・城下の修繕にかかる。
(ちなみに移封されたときはまだ伊予松山城築城中だったらしい。)
ボロボロの鶴ヶ城を二代にわたって白亜5層に直した。
しかし家臣団の諍いが原因で、幕府に領土を返上する。
7.保科正之、以降「松平家」(クリックで展開)

保科正之
二代将軍・徳川秀忠四男(庶子)。いわば将軍様の隠し子的な生い立ちである人物である。
だがこの人、三代将軍・家光以降の幕政を影で支え、藩政に関しても国内初の年金制度や後の日新館の基礎となる教育制度、武家の殉死慣習を禁止、民間の困窮救済制度の実施などの社会制度の確立・整備などを行った、とんでもないお人。

これらの功績が認められ、後に会津藩は松平を名乗ることを許され、東北の玄関口・外様大名である伊達藩への睨みを利かす徳川幕府になくてはならないものとなった。

この保科公が定めた家訓十五条(”ならぬことはならぬものなのです”の大元)、さらに武断政治を基本とした徳川二代から、三代目以降(朱子学を基本とした)文治政治への転換指導の成功が、会津の名君ひいては徳川幕府・影の名君たらしめ、後の会津気風として脈々と受け継がれていくのですが、それが明治維新の悲劇と繋がります・・・。

 

とまぁ列挙すれば錚々たる面々が連なっています。
珍しく文字が並びましたが、撮るもんは撮ってるのでどうぞご覧ください。









 

お城の中はこんな感じ


























 

夕鶴








 

夜鶴






夜遅くまで粘ったので超疲れた!

今日は市内の快活クラブにて終了です!
おやすみなさい!

走行時間:2:23:23
走行距離:36.93km
平均速度:15.4km/h

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