【白石城】2015/09/27(8日目)【うーめん】

本日もネットカフェからおはようでございます。
風邪の具合が相変わらず芳しくありません(´;ω;`)

早いところ治ってくれないかとやきもきしているところですが、焦っても始まりません。

不幸中の幸い、今回利用した時間はとても居心地が良いところでした。
(全国展開している空間とはまったくの別会社です)
値段設定や接客対応なども良心的
そして何より、ドリンクバークルトンが置いてある
ポタージュ好きの自分にとっては、これは点数が高い
また機会があれば、是非とも利用したいところでした♪

さて今日目指しますは、宮城県と福島県の県境にある、白石市というところです、
現地には、あの伊達家の名参謀片倉小十郎景綱のお城もあるというので行ってみたいと思います。
(大河ドラマ「独眼竜政宗」より。)

左:伊達政宗(渡辺謙)
中:片倉景綱(西郷輝彦)
右:伊達成実(三浦友和)


まずは適当に市内散策。
延命寺
(クリックすると高解像度でご覧いただけます。)


白石駅


うーめん製麺各所



まだ朝早くどこも開いてませんでした(;’∀’)

そして白石城入り口でございます。


最初こそ坂道がありましたが、岩出山とか青葉山とかよりぜんぜん短く緩やかでした。
そして天守がこちら。


ここらでうろうろしていると、ガイドのおかあさんがいそいそとやってきました。
案内してくれるというので、ついていってみることに。

まず天守と土塀の石垣について説明を受けました。
見るととで石の色苔の生え方が違います。
もともとの石垣が残っていたところと、20年前に天守が再建されたとき改めて積まれた層とがあるからだそうです。
そのうち新しいところにも傷や苔が生えてくるので、このが見られるのはあと数年だろうとのことでした。

天守と土塀の石垣にも違いがあり、天守側は石を加工せずそのまま積み上げる、いわば戦国型の野面積みという積み方。
一方土塀の上のほうは、江戸時代近くに建てられた新しい部分なので、切石・隙間石を用いた・・・なんとか積みという積み方だとか。
すみません、思い出したら書き直します。

左右見比べると、天守の石垣は総じてまん丸のままの石ですが、土塀のほうは上の石が切られて加工されているのが分かるのと思います。




それから一の門、そして大手門をくぐるわけですが、大手門と一の門の間がちょうど中庭というか、谷底というかひとつの空間になっています。
これは敵が攻めあがってきたとき、この場所で食い止めつつ三方から集中砲火を浴びせられるよう設計したからだといいます。




大手門をくぐると、開けた広場が現れますが、ここに昔は御殿が建っており、政務を行う場所、謁見の場、大名家臣の日常生活のスペースなどになっていました。






最後の石碑は初代・小十郎公の記念碑です。
巨大な一枚岩を切り、石巻方面から塩釜まで船で運び、そこから陸路でここまで運んできた代物だといいます。
当時は刀剣の形をしていたらしいのですが、長年の風雨と、太平洋戦争後は米軍の拳銃の的にされたりなどしたため、だいぶ削れてしまったみたいです。
しかし柄に当たる部分もさらに土台に埋まっているので、10m以上といわれるの石碑の巨大さが分かると思います。

さてお気づきの方もおられるかと思いますが、天守閣の位置が本丸の中心ではなく北の一角にドドンと構えられています。
まさに、曲輪の各隅にある櫓と同じ配置です。
これこそ白石の天守が「物見天守」といわれる由縁で、北に睨みを利かせた造りとなっています。
しかしこの方角は、片倉家の主、伊達家の本拠・仙台青葉城
なぜ北を見張らなければいけなかったのでしょうか?

正解は、そもそも白石城は伊達・片倉勢の城ではなかった、のでした。
築城の大主は、会津若松の鶴ヶ城を建てたことで有名な蒲生氏郷(がもう うじさと)。
豊臣秀吉の家臣で、伊達への監視・牽制役として会津福島の方に派遣されてきた方です。
鶴ヶ城を建設後、さらに白石にも城を築き、伊達への睨みとしたのです。
白石城と鶴ヶ城は、やはり作りが似ているそうな。

蒲生氏郷はその後、40歳という若さで早逝してしまいます。
後に会津若松に入城するのが、あの上杉景勝でした。
もちろん、前線基地である白石城にも上杉家臣が入り、江戸時代が始まるまでは岩出山・伊達vs会津・上杉の構図が続くのでした。

その後の関ヶ原にて、上杉は米沢へ押し込められ、伊達は仙台へ。そして白石は片倉家のものと落ち着きます。
江戸幕府開府後は、一国一城令のもと各藩にお城はひとつしか認められませんでした。
白石藩は仙台藩の支藩であったため、もちろん白石城は取り壊しの対象でしたが、特例として二つ目のお城を残すことを認められた珍しいお城なのでした。
(白石城の他には、熊本の八代城のみ)

ここまでほぼおかあさんガイドの受け売りなのですが、これにも増して出てくる出てくる白石のお話。
書ききれないので、いくつか箇条書きにして残します。

以下、白石秘話↓↓↓
・現在の建物は、鉄筋なしの全木造建築である。
・それもほぼ当時のまま再建されたもの
・なぜ再建可能だったのか。それは江戸末期の文政期に火事に遭い、再建する際には図面を幕府に提出する必要があった。その時の図面が奇跡的に現代に残っていたためらしい。

・入り口に来客用ひさし階段がある(伊達の殿様が濡れないよう気を利かせた造り)。


・片倉の家紋は、名声が全国に響くようにと釣鐘紋である(先に貼った駅前の写真に鐘があるのはその為)


・片倉家と来客用で入り口が違う。


・大坂夏の陣にて、二代目の片倉重長は、真田幸村から娘・阿梅(おうめ)を託される。


・重長の奥方は阿梅を非常に可愛がり、病で亡くなる間際、阿梅を後添えにと言い残したそうな。
・重長はそれに従い、以後50年、仲睦まじく暮らしたという。
・二人に子供は出来なかったが、先の奥方が残した娘の息子(重長の孫)が片倉家三代目として家督を継いだ。
・明治維新以降、改易された白石藩の家臣団は、一部北海道の幌別(登別)や札幌近辺に入植。白石区などとして面影を残す。

・お城なかの階段はそもそも梯子だったらしい。いまある階段もとても急勾配(油断すると脛をぶつける)
・ガイドのおかあさん(御年80近く)、登るのが超速い(地元のお茶会に来ていたマダムは皆、手すりに掴まり片足ずつソロリソロリと登ります。まぁ普通はそうなるよね。)

庇のある入り口の石階段なんかこれの二倍の速さでした(汗)

・資料館で上映される立体資料ムービーには、案内役に渡辺謙、初代小十郎に宍戸錠(まだ頬に綿が!)の豪華俳優を起用。

とまぁ覚えているだけでこんな感じです。
濃密な時間を過ごしました。めちゃ面白かった。
この後は、ガイドのおかあさんから教わった市内名所を練り歩きます。

先ずは武家屋敷。
明治維新にて片倉家は改易され、家臣団の多くが北海道へ流れてしまった中で、市内に残っている数少ない当時の屋敷だそうです。
そう考えると秋田の角館は、戊辰戦争時は”一応”官軍側についたので、あれだけの武家屋敷が残っているのでしょうか。
(戦闘自体は庄内藩・伊達藩にボッコボコにされたらしいのですが)

この屋敷の主、旧小関家は江戸中期の城下町絵図に名を残す、中流武士の一つだったそうで、鬱蒼とした茂みを玄関から庭に抱え、入り口前の小さな堀川もその時代の薫りを思わせます。



本日は中秋の名月(十五夜)で、お供え物も置いてありました。

 






 

見てたらお腹がすいてきたなぁ。
ということで、白石といったら温麺(うーめん)でございます♪



 

・・・玄関とトイレ間違った。
茂みの奥がトイレで玄関は暖簾の右でした。
改めて、国道沿いのうーめん番所さんでいただきまーす。

お品書き




葛かけうーめん(1130円)


 

うーん、うめーん(*´ω`*)
醤油ダシに葛のトロミと麺のなめらかさが何ともいえません。
最近風邪気味だった体にスッと入っていく心地よさと相まって、今の私には最高のご馳走でした。
さすが、吉永小百合とCMに出ていた(らしい)だけある逸品でございます。
因みに温麺がなぜうーめんと読むか、ざっくり解説すると、

・ある麺が白石のお殿さまに献上される。
・その旨さに感激したお殿さま、自ら温麺(おんめん)と名付ける。
・が、献上した温麺の作者、褒められた事に舞い上がり何と名付けられたか忘れてしまったそうな。
・近所の住民と話した結果、それって「うめーめん」と言ったんじゃね?ということになる。
・そこから正式名称の「温麺(おんめん)」「うめーめん」混在し”温麺=うーめん”となった。

実は由緒あるダジャレなんです。
なので皆さん、白石に来たら是非温麺をたべて「うめーん!」と叫びましょう、心の中で。

さて、美味しいものと与太話でお腹がいっぱいになったところで、お次は高速道路の向こう側にある愛宕山・片倉家歴代霊廟へ向かいます。
ちょっとした坂を登り、



到着~。



林に囲まれかなり鬱蒼としています。
道中には一般の墓所もあり、一昔前までは本当に薄暗く、一般の観光客など来ない所だったそうです。
ここ最近は整備され、いくらか通りやすくなったとか。

片倉家当主の御歴々へご挨拶して、お次は菩提寺・傑山寺へ。
立派なお堂に初代・小十郎公の石像がお出迎えしてくださいます。


本堂で参拝をし、脇の小道から一般のお墓を抜けて、初代・小十郎公のお墓へ向かいます。
初代・小十郎公は墓の盗掘を恐れ、街の静かな一隅に一本杉を植え、その脇にひっそりと埋葬するよう遺言したそうです。




その後、江戸時代も安定期に入ったことで、初代含め片倉家の霊廟がキチンと祀られるようになったと言われています。
戦国の世を渡り歩き、伊達の知恵袋と謳われた片倉小十郎景綱らしいエピソードでございました。


 

最後は白石駅近くのお寺・当信寺へ。
こちらには片倉家へ託された真田信繁(幸村)の遺児、阿梅の方と弟・大八のお墓がございます。




幸村・大助(嫡男)大坂夏の陣にて戦死したので、幸村の血は途絶えてしまったと思われている方もいらっしゃいますが、大助の弟・大八が成人したのち片倉家へ仕官し(しばらくは片倉性を名乗った)、98年後その子孫が真田姓を許され、現在15代目まで続いているというので、今でも脈々と血筋は絶えず続いているそうです。
そういえば来年2016年の大河ドラマは「真田丸」ですね。
三谷幸喜さんが幸村一族のその後をどれくらい掘り下げてくれるのか、期待しすぎもいかんですが気になるところではあります。
もし取り上げてくれるのならば、白石にも大河紀行撮影隊がやってくるかもしれません。

当信寺



はぁ~廻った廻った。
お城だけのつもりが随分と歩きました。
暗くなる前に福島まで行きたいな。

っと、程なく福島県突入!


 

そして福島市内阿武隈川~。


けど公園が無ぇ~。
正確にはトイレ付き公園がない~。
2時間くらいウロウロしてたら、公園表記の近くを通るとトイレ発見、やったー。
意気揚々と即席ラーメン作って食って、テント張って、荷物入れて、さぁ着替えて寝るだけだ~。
・・・遠くから「すみませーん、ここテントダメなんですよー」
(゚∇゚ ;)エッ!?
とっぷり暗くなって、目一杯準備してのこのタイミングは、ちょっとクるものがあります。
聞くと私が陣取ってたつもりの土地は公園ではなく保養施設の一部らしく、公園は道路の向かい側のさらに川の土手を降りた方らしい。
ガーンだな。
でもとやかく言っても仕方ないので、渋々撤去➡再設置(施設の方ご迷惑をおかけしましたm(_ _)m)。
半端なくダルい。
けど、ならぬものはならぬのです。
さすが福島?(笑)
疲れた心と体を、十五夜のお月さんが少し癒やしてくれました。
さて、明日も頑張りましょう。

 

走行時間:3:53:53
走行距離:58.75km
平均速度:15.0km/h